みなさま こんにちわ-(* ・ω・)ノ
大変遅くなってしまいましたが。
さて、前回につづき第6回目の都城歴史観光ガイド養成講座についてご紹介いたします!!
長くなりますが。。
どうぞお付き合いくださいませ(゚ー゚)☆
まず【①黒尾神社】
梅北町にあります。
もともと神柱宮があった場所ですが、明治6年に小松原の現在地に移しました。
黒尾神社は元は愛宕社でしたが、後に黒尾権現となったそうです。
興玉神社の鳥居と大きな杉の木が2本。境内にあります。
社殿の様子です。
この興玉神社の内部には、宮崎県最古の建造物といわれる内神殿があります。
足利義満時代の建造物だそうですが。。
写真の奥のところにあるそうですよ(゚ー゚)
正応寺地区にあります。
宮村小学校の近くにあります。
都城~日南市飫肥へ続く道筋に置かれた番所。
【④梶山城跡】
現在はお城は残っていません。
この梶山城での戦いで敗れた久秀及び弟の忠通のお墓が保存されています。
また墓の傍には久秀が死ぬ間際に座ったと伝えられる『腰掛石』も保存されています。
三股町オフィシャルウェブサイトでも確認できます☆
外観はこのような感じ。
入り口。。
入るとすぐに弥五郎どんがお出迎え。
毎年11月3日に開催される山之口町の弥五郎どん祭りでは、
身の丈4mの弥五郎どんが四輪台車にまたがって練り歩きます。
また、弥五郎どんは3兄弟であるという説があり、
長男が山之口町の的野正八幡宮、次男が鹿児島県曽於市大隅町の岩川八幡神社、
そして三男が日南市飫肥の田ノ上八幡神社といわれています。
ビデオやパネル等が置いてあり、弥五郎どんの歴史について詳しく知ることができます。
(山之口商工会HPより)
山之口町麓の国道沿いにあります
舞台の中にも沢山の人形がいます。
広い畳の間に舞台があります。写真は参加している皆様と舞台。
現在、国の重要無形文化財に指定されており、
年に4回(3、6、9、11月)定期公演を行っております。
幕末、薩摩藩は財政が困窮しており、財政立て直しのひとつの事業として造られたものだそうです。
こちらが寒天工場跡。
1982年に発掘され、9つの釜戸跡が確認されています。
都城市高崎町と有水の間を流れる岩瀬。
【⑨塚原古墳群】
『つかばる』と読むそうです(゚ー゚)
奥が前方後円墳。
こちらのバス停が目印。
このあたりは円墳を含め、古墳が点在しています。
こちらには別当寺として金剛仏作寺があり、
庄内の乱の際に、島津忠恒(家久)が本陣としたお寺。
また、大坂夏の陣に出陣する際に寄進した梵鐘が現在、県の重要文化財になっております。
こちらがその梵鐘。
また東霧島神社といえば。。
この鳥居から続く階段は鬼が作ったと言われており、大変お見事ヾ(´・ω・)ノ゛
そのほかコチラの「神石」割裂神石
かなりキレイに割れています。
幸招大楠といいまして、大きな洞があります。
この洞をくぐり、右に3回、左に3回めぐり、隣にある乳水・龍神水をいただくと無事出産安産であり、
病魔を払うといいます。
鳥居のそばの大きな木
大人5人でやっとです( ・∀・)ノ
わんこもいました♪♪
。。が結局、顔は撮らせてくれませんでした。。
都城島津家 初代北郷資忠が足利幕府より、北郷300町を与えられました。
そして、このあたりの地名により、「北郷」の姓を名乗ったとされます。
薩摩迫の入り口には標柱が立っています。
ちょうど発掘調査中。
当時の陶器の破片などが見つかったことなどもあり、
北郷氏が住んでいたことには間違いないでしょうということでした。
場所は現在のJA庄内支所の敷地の一角です。
北郷家の領主達のお墓で、7代数久が建てたものです。
ここまでは車にて、約15~20分間隔で移動、
以下は5分間隔の移動になります
庄内町の豊幡神社の境内にあり。
山久院というのは資忠の戒名からきているようです。
資忠の菩提寺として薩摩迫にあったものが、のちにこの地へ移されました。
奥様のお墓と並んでいます。
コチラも同じく庄内町。
資忠が創建したといわれます。
ステキな階段のお出まし。。
見るかぎり、とても急な階段ですが。。
参拝されるかたは上までどうぞ★⌒(●ゝω・)
1924年の改築の際に現在の山頂に遷されたようです。
薩摩藩の厳しい取締りの目を逃れて浄土真宗を信仰しており、
山中の他からは見えないように洞窟に集まって信仰していました。
都城近辺には平田かくれ念仏洞以外にも、山之口の田島念仏洞、有水の田辺念仏洞などが残っています。
以上が第6回目の都城歴史観光ガイド養成講座の紹介でした(。・ω・。)
都城 島津と歴史博物館HPより引用しております。
また、コチラの『都城歴史観光ガイド』でも詳しく紹介しております。
都城島津邸にて100円なり☆