財政立て直しで寒天を製造
江戸時代末期、鹿児島藩は厳しい財政難に悩まされていました。藩の家老で財政改革を行っていた調所広郷は、指宿の豪商、浜崎太平次と諮り、この地に寒天製造工場を設置したと伝わっています。
寒天の原料となる天草は、甑島を中心に薩摩西海岸から運ばれ、天草を煮る窯の大きさは、直径130センチメートル、高さ180センチメートルほどでした。寒天となった製品は福山に運ばれ、更に大阪、長崎を経由して、中国やロシアに密輸されていました。
寒天製造の最盛期は、安政元年(1854)から明治四年(1871)頃までで、監督者や技術者は鹿児島から派遣され、従業員は指宿、伊集院、伊作などから出稼ぎが約80名、地元採用で約50名であわせて約120~130名であったといわれています。
この地を選んだ理由は、寒天製造に適した自然条件を備えていたということと、幕府の役人の目を避けるためであったともいわれています。
(※この説明文に出てくる地名は当時のものです)
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施設情報
所在地 | 都城市山之口町山之口1640番地 |
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連絡先 | |
駐車場 | 約5台 |
アクセス | 山之口スマートICから車で約10分 JR日豊本線山之口駅から車で約10分 |
URL | https://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/site/kanko/1465.html |